魂を磨く

言葉の力の限界、名言が素晴らしいのは言葉のせいではない。

言葉の力の限界について

著名人の名言・格言、古くから伝わることわざは、勇気や温かさや希望を与えてくれます。

文学作品やエッセイ、作文、詩歌は、人生哲学を考えさせてくれます。

般若心経や祝詞や「ありがとう」という言葉には、何か霊的な力が秘められているようです。

言葉の力のおかげで、私たちは何千年も前に生きた先人の知恵を受け取ることができ、複雑な意思疎通を行うことができ、感動したり、行動を書きたてられたり、体験を共有したりすることもできます。

しかし、真実の力は言葉そのものではなく「行間」や「背景」にこそあります。

言葉が真実であると錯覚してしまうと、非常に狭い世界で生きてしまうことになるのです。私は、ずっと長い間、言葉だけの小さな世界に住んでいました。

言葉にとらわれる発達障害

言葉に囚われる発達障害

表情やしぐさ、言い方、雰囲気よりも言葉の意味の方を優先してしまうために、コミュニケーションに困難が生じる発達障害があります。

昔は自閉症とか、アスペルガー症候群とか呼ばれていて、今は自閉症スペクトラム障害または広汎性発達障害(PDD)と言われることが多いようです。

発達障害と一口に言っても症状は多様で、もちろん全員がそういう特徴を持つわけではありませんが、言われた言葉通りに受け取ってしまうという特徴が見られます。

たとえば、

  • 冗談や皮肉が通じない
  • 場の空気が読めない
  • 人の感情を汲み取るのが苦手

などが顕著に表れます。

私自信もかなり言葉にとらわれやすいタイプです。 日常生活には支障がないので、たぶん発達障害ではない(と思いたい)のですが、言葉を気にしすぎるせいで内心モヤモヤしてしまうことが多々あります。

たとえば、

「○○してもらっていいですよ」

と言われたりなんかしたら、めちゃくちゃストレスを感じます。

まず、「○○していい」は言葉通りだと「許可」を意味します。しかし、そういう言い方をする人は「○○してほしい」という「依頼」または「○○しなければいけない」という「命令」であることが多いことも経験から理解しています。

なので、頭の中では「その人は一体どちらの意味 で言ったのだろうか」という疑問が生じ、さらに「自分が○○をやってほしくて人に依頼するのに、まるで相手がそれをやりたいのを許可するかのような言い方は失礼じゃないのか」または、「○○はしなければいけない必須のことなのか、それともしてもしなくてもいい任意のことなのか」と次の疑問も発生しています。

なんでわざわざそんな面倒臭い言い方をするのだろう、と素で不思議に思うのです。依頼でも命令でも「○○してください」でいいのになあ、と。たぶん、婉曲的な表現で言い方を柔らかくしようとしているのかもしれません。

言葉の裏側の真意を見るということ

言葉の裏の意味を探る

メンダー(師匠)の黒澤全先生からは、言葉そのものよりも「なぜ、その人がそれを言ったのか」という言葉の裏側の背景や行間に含まれることをイメージするように とのアドバイスをもらいました。

言葉に含まれる情報量はとても少なくて、しかも人によってバラバラです。

たとえば「太陽」と言えば、多くの日本人は日の丸のように赤いマルを思い描きますが、太陽が黄色い国もあります。中には図鑑に載っているような写真で思い浮かべる人もいるでしょうし、日差しや温かさのイメージを持つ人もいるかもしれません。

太陽の実物は一つしかなく、「太陽」という同じ言葉を聞いているにも関わらず、言葉から思い浮かべる「太陽のイメージ」は人それぞれなのです。

実物があってもこんなに違うので、「形のないもの」なんかになると、同じ言葉を使っていても含まれる意味が大きくズレて行ってしまうのだと思います。

その言葉の誤解が職場や家庭でケンカの種になったり、国同士や違う宗教の間の争いを引き起こしたりするのかもしれません。

また、「感謝しましょう」とか「人のために良いことをしましょう」なんて当たり前のようなことを言っているだけの名言にも、ある人が言うとものすごく重みが感じられることがあります。

その人が一つの単語に持つイメージや、それまでに経験してきた人生のストーリーが言葉に深みや重み、厚みを出しているのです。

ある一つの言葉の裏側に、または言葉と言葉の間にどんなイメージを、そしてどれだけの情報量を持っているかが、言葉に力を与えます。

言葉にできない世界がある

哲学の言葉は難しいか

私は文系学生だったのですが、本当にただ「楽そうだから」ということで哲学を専攻しました。心理学や社会学は実験とかフィールドワークとかがあってめんどくさそうでしたが、哲学はただ本を読むだけで良いと思ったのです。

でも、哲学の本はその当時は読んでもさっぱり分かりませんでした。ア・プリオリがなんだとか、アウフヘーベンはどういう意味だとか、哲学用語集の説明を読んでも何が何やらで、結局よくわからないままどうにか卒業してさっさと就職してしまいました。

それから10年近く経って、今、哲学の本や文学作品を読むと「あれがこれか!」と、体験の中からなんとなく感覚が近いところが見つかったり、他で勉強したことと繋がったりという現象が少しずつ起こるようになりました。

その例の一つを記事に書いています。

愛されない子、というトラウマを私が克服した一瞬の出来事について
自分は愛されない子だった、きょうだいと比べてほったらかしだった、そんなトラウマはありませんか? わたしが愛されなかったコンプレックスを一瞬で解消した出来事とは…

言葉の力の限界

こういった感覚的なことは、「言葉」からいくら学んでも分からなかったことでした。体験があって、それが言葉につながって、初めて理解できるように思います。

しかし、言葉がなければいくら体験をしても「これ」が一体何なのか気づかないままに見過ごしてしまうのです。

たとえば「りんご」の実物を見たことがなければ、「木になる赤や黄色の実で…」と説明を言葉で読んでもきっと良くわかりません。

一方で、実際にりんごをむしゃむしゃ食べていても、「りんご」という言葉を知らなければその人にとって「りんご」は存在していません。ただ、何かを食べてお腹に入れただけになってしまいます。

きわめて感覚的、主観的でありながら普遍的なもの。本来は、言語化できない領域を伝えようとしたときに、音楽や絵や文学は直接、感覚的に訴えて伝えようとします。

もしも「りんご」という果物を知らなかったとしても、りんごが登場する『白雪姫』を読んだらその扱われ方や文脈からりんごの「イメージ」は汲み取ることができます。

哲学では、どうにか言語化しようとするために分厚い本になってしまうようです。別の難しいことをわざと書こうとしているのではなくて、感覚を言葉にしようとしたら説明が大変になったという結果でありましょう。

それは、りんごの実物以外をあらゆる角度から記述したものですから、りんごを知っている人には「ああ、それね」 と思えます。

哲学の「りんご」に当たるものは、人生の経験から体感されるもの、あるいは「なぜ?」と問い続けて出てくる原因らしきもの、純粋に直観で得られるもの、などです。

言葉と行動・経験のバランス

言葉はカギにすぎない

思うに、言葉とはカギの束のようなものではないでしょうか。

ジャラジャラと、カギだけたくさん集めても、カギの合うドアを探しに行って、自分で部屋の中に何があるのかを確かめないとあまり意味がありません。

カギを持っていなくても、自力であちこち歩き回ってどこにどんな扉があるのかを知っていれば、いざカギを手に入れたときに「あそこのあれのことかもしれない」とピンとくるようになります。

そして、あちこちの部屋のカギを開けていくと思わぬ部屋どうしが一続きになっていることもあります。関係ないと思っていた知識が繋がっていくのです。

なので、たくさん勉強して本を本で、言葉だけ大量に持っていたら、実際に行動してみてあっちこっちのカギを開けに行った方が良い かもしれません。逆に、人生経験が豊富な人は少し言葉に触れると、いろんなことが繋がって面白くなっていくはずです。

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