心が洗われるような禅語は、座右の銘にぴったりです。
今回は、座右の銘にするとカッコイイ禅語を集めて分かりやすい解説を添えました。
ぜひご参考にどうぞ。
目次
座右の銘にしたい禅語集1 脚下照顧 きゃっかしょうこ
「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」の意味は、自分の足下をよく見ましょう、ということです。
禅では、他の人に悟りを求めずに、まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語として使われます。
転じて、他人に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきことの意味を持つようになりました。
自分の足元が見えていないときは、自分自身のことも人生の行く先のことも見えなくなっています。
「あの人はここが分かっていない」などと、他の人をあれこれ言うとき、「もしかして、自分にもそういう部分が無いだろうか」と自分のこととして考えるようにしましょう。
そうすると、自分が乗り越えなければいけない人生の課題が見つかります。
心の状態は、足元に表れます。落ち着かないと足がソワソワとせわしなくなりますし、上の空だと脱いだ靴を揃えないでほったらかしてしまう事があります。
玄関先で脱いだ靴を揃えるというちょっとした動作が、自分の心を整え、美しい生き方をすることにつながるでしょう。
座右の銘にしたい禅語集2 本来無一物 ほんらいむいちもつ
禅の代表的な言葉で、よく掛け軸などにも書かれる「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」の言葉ですが、「元々何も持っていない」ぐらいの意味に取られがちです。
実は、この禅語にはもっと深い意味がありました。
ここでの「本来」とは、「元々」ではなく「本質的に」「根源的に」の意味を持ちます。
また、「無」は何もないという状態ではなく、禅宗でいう「無」は有と無の二元論を超えた次元の、有も無も全てのものがそこから生じるような「根源」のことを指します。
この世界も、私たちの肉体や心も、その「一切を超越した根源」から出てきているものですので、そもそも良いも悪いもないのです。
善悪とか生死、ポジティブ-ネガティブ、きれい-汚いのように区別して、どちらかを避けようとしまうのは、大乗仏教では真実についての誤った理解、「迷い」とされます。
生きるのも死ぬのも同じ「根源」の現れであり、同じ価値なのです。
それを分けて考えようとするので、私たちは苦しんだり迷ったりしてしまうんですね。
そういった迷い、一切の囚われを亡くした世界こそが「禅」なのです。
ちょっと難しいですが、「これは良い出来事」「あの人は悪い人」のように一々自分で判断せず、全部が「無」の根源から出てきたもので何か意味があるという風に考えていくと二元論から一歩踏み出せるのではないでしょうか。
座右の銘にしたい禅語集3 行解相応 ぎょうげそうおう
「行解相応(ぎょうげそうおう)」は、「行い」と「理解」、実践と理論を一致させましょう、という意味の禅語です。
理解しているだけでは不十分で、まずは自分から動いて実践してみることが大切です。
私もそうだったのですが、たくさん本を読んだり、色んなセミナーに出たりして、勉強するだけで満足してしまって行動が伴っていないことがあります。
いわゆる「ノウハウ・コレクター」状態ですね。
そういうときは、知識を集めるだけで実際には出来ない、実はちゃんと覚えていない、ということになってしまいます。
たとえば、料理の本を何十冊も読むよりも、覚えたレシピを1品でも作った方が料理はずっと上達しますよね。
実際に行動した結果、失敗すると「あれはこういう意味だったのか」と理解が深まることもありますし、感覚をつかんで体得・会得したことは忘れません。
行解相応は、仕事で部下や後輩を育てるときにも大切なマインド です。
言って聞かせるよりも、自分でできることをやった方が、その背中を見て自然と人が付いてくるようになるのです。
理論を覚えたら、それを実践することを意識してやってみましょう。
座右の銘にしたい禅語集4 主人公 しゅじんこう
「主人公」という言葉、元は禅語だったんですね。
瑞巌和尚(ずいがんおしょう)という、ある高名な僧侶は、自分を「主人公」と呼んで語り掛け、自分で答えていたそうです。
「目を覚ましているか」「ハイ」、「人に騙されるなよ」「ハイ」というように、自問自答をひたすら繰り返したと言われます。
禅では、「自分はこういう人間である」と決めつけない方が自由に、楽に生きられるとされています。
たとえば、「私はサラリーマンである」とか「私は○○家の長女である」とか、社会的な役割によって自分は定義されてしまいます。
サラリーマンが悪いとか、家族の一員でいることが悪い、というわけではありません。
しかし、「自分は○○だ」と決めつけることは、本来魂が望んでいる事ではないのです。
自分の魂、「本当の自分」は、もっと自由でたくさんの可能性に満ちています。
その、自分の中のもう一人の自分、「本当の自分」こそが人生の「主人公」なのです。
自信が無くなってしまったとき、将来が不安なとき、「弱気な自分」は本当の自分ではない、もっと自由で、大きく成長しようとしている「本当の自分」がいる、ということを信じましょう。
座右の銘にしたい禅語集5 随所に主となれば立処皆真なり
「随所に主となれば立処皆真なり(ずいしょにしゅとなればりっしょみなしんなり)」は、臨済禅師(りんざいぜんじ)の言葉です。
自分が置かれた境遇や立場の中で、自分が主体になって精一杯の努力をしましょう、そうすればすべての人が真実に出会うことができますよ、という意味です。
私たちは、自分の人生や今の状況を、つい周りの環境のせいとか、人のせいにしたくなってしまいます。
しかし、自分が今やっている仕事や、どのぐらいお金があって、どういう人たちと付き合っていて、というようなことを自分の責任だと思えないと、自分で人生を切り開けなくなってしまいます。
今、自分の周りにある環境や人はみんな自分が選んできたもので、自分にとって必要なもの、自分を磨いて成長させてくれるもの、と理解し、目の前のことを一生懸命に楽しんでやってみましょう。
今与えられている仕事、今与えられている役割、今日出会う全ての人に全力で関わっていくことです。
そうやって今を生きると、それが次の良縁やチャンス につながっていきます。
座右の銘にしたい禅語集6 一日作さざれば一日食らわず
「一日作(な)さざれば一日食らわず」は、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)という和尚さんの残した言葉です。
800年ごろの中国のお寺。
百丈和尚は、80歳を超える老齢になっても働きに出ようとするので、心配した弟子たちがあるとき道具を隠して働けないようにしてしまいます。
一日休むことになった百丈和尚ですが、「働かないということは、その日をなしていないということだ」と言って三日も食事を取らなかったそうです。
禅では、仕事は「労働」ではなく「作務(さむ)」といいます。
元々は、インド仏教では仕事がなく托鉢(たくはつ)をしてお布施の食べ物をもらうことが「作務」でした。
ところが、仏教が中国に伝わるとお寺は山の上に作られるようになり、いちいち山を下りて托鉢に行くことができなくなります。
そこで、僧侶は自分たちで畑を耕して作物を作るようになりました。
座禅を組むだけでなく、作物を作る「作務」もまた修行であり、自分を磨いて育ててくれるものである。
そういった考え方が、「一日作さざれば一日食らわず」に表れています。
ひとつひとつの仕事が自分を「作務」であると意識することで、日々の仕事が喜びに満ちてくるのです。
座右の銘にしたい禅語集7 日々新又日新 ひびあらたにしてまたひあらたなり
「日々新又日新(ひびあらたにして、またひあらたなり)」、自然は日々移り行き、毎日が新しい世界になります。
何一つとして、同じ場所にとどまっているものはありません。
一倫の花も、種から芽を出して成長し、花を咲かせて、枯れて行く、というように常に変化しています。
ところが、人の心は変化を嫌い、安定を求めてしまいます 。
お金がたくさんあった方が安心だとか、色んな組織にくっついていた方が良いような気がするとか。
でも、それは本来の「変化し続ける」自然に反しているため、「安定したい」という願いは永久に敵わず、心は不安定になってしまいます。
逆に、毎日が違う日である、変化し成長し続けるという自然の流れを受け入れることによって、心は安定できるのです。
自然は毎日新しく変わりますが、人間も同じです。
明日はまた新しい自分に変わって、成長していける。
だから、不安に思うことはないのです。
以上、座右の銘にしたい禅語7選でした。
ぜひ参考にしてみてくださいね!
最後までお読みいただきありがとうございました。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。管理人の佐藤想一郎と申します。
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