きょうだいのいる方は、きょうだい間で親からの扱いの違いを多少は感じたことがあると思います。
一番目の子、長子は親が子育てにやたらと張り切り、写真の枚数は多いのに比例して期待も大きい。そして、年齢に関わらず「お兄ちゃん/お姉ちゃんだから」としっかりしていることを求められます。
下の子は、親の写真撮影や行事へのやる気はやや下がりますが、親の子育てスキルの向上により程よくのびのびと育てられる傾向があるようです。基本、下の子には甘いです。
あとは、親子間も人間どうしなので性格の合う合わないや、育てやすさの個人差もあります。
きょうだい全員に等しく愛情を注ぎたいと思っても、扱いは多少違ってしまうのは仕方がありません。
私は二人姉妹の上の子で、「妹に比べて愛されていない」と感じることが多々あり、それがずっとコンプレックスになっていました。
親は「そんなことはない」と言いますが、納得はいきません。
私がこれまで「愛されない」と感じるようになり、親に限らず誰にも愛されないというコンプレックスに発展してしまった経緯と、克服すべく取り組んできたこと、そしてちょうど今日(このブログを書いている2016年12月28日)に完全に克服できたと思った一瞬の出来事について、シェアさせていただきたいと思います。
この記事を通して、過去に「愛されない子」だったと思う方、今でも「親に愛されない」「誰にも愛されない」ような気がすることでお悩みの方にお伝えしたいことがあります。
それは、「あなたは間違いなく愛されて生まれて育ってきた」ということ。これは断言できます。
でもどんなに親や周りの人に言われても、あなたの心が変わらないと実感はできないということ申し添えておきます。
ただ、実感できないと意味がないと思いますので、万人に効果があるかどうかは分からないのですが、ご参考までに、私がいかにして「愛されて育った」ことを確信したのか、具体的な方法をご紹介します。
幼少期から長年の悩みも、「愛されている体感」ができれば、吹き飛ぶのは一瞬の出来事です。
この幸せを、あなたにもぜひ実感していただきたいと思います。
親に手放しで愛されていた子、2番手に甘んじる
私は、3歳までが人生最大のモテ期で、完全なるお姫様状態でした。
同居の父方の祖父母には初めての内孫、母方にとっても初孫ということで、みんなデレデレです。可愛がられて甘やかされていました。
ところが、妹が生まれた瞬間に、妹に親の注目を全てを持っていかれます。
妹はこだわりの強い子どもで、粉ミルクを受け付けず母乳しか飲みませんでした。それで母親は仕事をやめて育児に専念するようになります。
私は当然、面白くありません。 母親の出産前は祖母に預けられて、やっとお母さんが帰ってきたと思ったら赤ん坊に占領されてしまったわけですから。
それまでは何でも私の天下だったのに、妹第一の屈辱の日々が始まります。
赤ちゃんなので、母親は妹にベッタリ。楽しそうに離乳食を食べさせているところを、私は指をくわえて見ていました。
長子でよくあるパターンだと、そこで妹の面倒を見るしっかり者の良い子ちゃんになるはずですが、私はワガママすぎて妹をいじめるという手段を取りました。
今思うと、起こられてでも自分の方に親の気を引きたかったのかもしれません。
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ハッキリと覚えている事件があります。妹が1歳ぐらいでやっとよちよち歩きを始めたころのことです。
お風呂上りで、寝室に向かって歩いていたのですが、目の前でモタモタしている妹にイラッとした私は、後ろから妹を付き飛ばしました。もちろん妹は転んでギャン泣き、私は母親からゲンコツを食らって怒られます。
「謝りなさい」
と言われましたが、私は頑として謝らず、裸足で外に飛び出しました。
(もう家は妹に乗っ取られて誰も味方がいない。家出しよう。)
ごつごつしたアスファルトをふみしめながら、そんなことを考えていました。
しかし、即効で父親に回収されて家出は未遂に終わりました。
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妹は何かと弱々しい感じで、母が過保護に面倒を見るというパターンが出来ていました。
そこで、私は親の気を引くための努力の方向性を「勉強ができる」ことに向けることにします。高校入試も大学入試も頑張って、一瞬は気を引くことができました。
ところが、今度は妹が不登校になったりうつ病になったりしてまた親の注目を全部持っていきます。
県外の大学に進学した私はほとんど帰省せず、そのまま県外で就職し、今度は「家出」に成功しました。
愛されたい病を克服するには?
「一番に愛されなかった」という敗北の体験は私にとって、ちょっとしたトラウマでした。
自分の方がしっかりしているし、病気をしないでちゃんと学校にも通っているのに、結局のところ、親がかわいいのは弱くてダメでかわいらしい妹なのです。(と、思っていました。)
だいぶ後になって母親と話す機会があり、妹は妹でプレッシャーを感じたり、自分のときの七五三の写真が着物じゃなかったりするので悩んでたらしいという事を聞きました。
それで、妹に対する気持ちは和らぎましたが、だからと言って過去への復讐心はあまり晴れませんでした。
そんなこんなで、社会人になっても「愛されない」というコンプレックスをずっと引きずっていました。
何かと人の気を引きたがる、少し面倒な「かまってちゃん」なんですが、傷づくのが怖くて人に本心を見せらないと思っていて、表面的な関係になりがちでした。
思い切って、友人に相談をしたことがあります。
その時にもらったアドバイスは、
「大切なのは、愛されなくても愛していくことだと思います」
というものでした。
人を愛した分だけ、人から愛される。人を大事にした分だけ、人から大事にされる。
簡単に言うものの、愛するというのはどうしたらいいのか良く分かりませんでした。分からずに、私は1年近くほったらかしてしまいます。
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最近になって、やっと「考え方」が分かってきました。
- 「愛する」って何だろう?
- 「愛情」とはどんな気持ちだろう?
- 「無条件の愛」ってどういうこと?
答えは出なくても、そんな風に問い続けることが大切で、「問い」を持って思考している時が、一番真実に近づいている。そんなことも教わりました。
その作業はけっこうモヤモヤして、スッキリしません。でも、スッキリしないのが良いのだそうです。考えて、フワッとしたまま、また寝かせておきました。
「愛されている」ことを知った一瞬の出来事とは
今日、たまたま仙台駅前に用事があって、自宅からバスに乗って出かけました。
行きのバスでは、前の座席に小学校高学年ぐらいとおぼしき男の子が一人で座っていました。
車内は空いており、その小学生男子は2人席にデーンとふてぶてしい王様みたいな座り方をして、顔もふっくらして唇をとんがらせて、すごい真剣そうにポケモンのゲームで遊んでいました。
それを見て、なんだか微笑ましいような気分になって、それからバスを降りて用事を済ませました。
帰りのバス乗り場に向かう道すがら、3、4歳ぐらいの小さな子どもを連れた家族を見かけました。お父さんとお母さんはベンチに座っていて、子どもはその前をトコトコ歩いています。
小さな帽子と手袋をはめられて、何が面白いのかニコニコして、キャッキャと謎の言葉を発しています。
私はその子どもを見て、(かわいいなあ)と心から思いました。
だって、こんなに小さくて、動いてるんですよ?!
子ども好きの人なら「当たり前じゃない」と言うでしょう。でも、私にとっては一大事件です。
今までも他所の家の子どもはたくさん目に入ってきても、「チョロチョロして邪魔くさいなあ」とか「やんちゃで親は大変だこりゃ」ぐらいにしか思わなかったんですよ。(性格悪くてすみません;)
それが、今日、いきなり、子どもが か わ い く 思えるようになったんです。
顔がかわいいとか、おりこうでかわいいとかじゃない。
その「小さい子どもである」という存在自体がかわいい。
ハッと、辺りを見回してみました。
ベビーカーでスヤスヤ寝ている赤ちゃん、頭が変な角刈りにされた外国からの旅行者らしき子ども、寒そうな恰好で元気に歩いている高校生たち。
(かわいい、かわいい…)
何だか分からないけれど、皆かわいい。
そして、「何の縁もゆかりもない他所の子がこんなにかわいいんだから、自分の家の子どもだったらもう死ぬほどかわいいよな」と妙に納得したんです。
そうか、私もかわいがられて育ったんだ…。
「大切なのは、愛されなくても愛していくことだと思います」という、友人の言葉の意味がやっとわかりました。
自分が他の人を「かわいい」と思えること、愛おしいと感じられることによって、「他の人々もそういう気持ちを持っているのだろう」という類推が働くのです。
言葉の上では分かっていたつもりでしたが、今までは自分が人を愛せなかったせいで、実感がなかったのです。
これが、それか!と、腑に落ちました。
そして私は、マフラーの中に隠れて泣きながらバスに乗って帰りました。愛なんて、なんだか良く分からないと思っていましたが、暖かくて大きな「愛」らしきものに包まれているような気がしました。
*
さて、ちょっと落ち着いたところで、「子どもは単にかわいい」ということに関連して、豪田トモ監督の映画『うまれる ずっと、いっしょ。』を思い出しました。
血の繋がりのない子どもや、不治の病で何年生きられるか分からない子どもがいる家族のドキュメンタリーです。
≪予告編≫
去年、上映会で見たときにも感動がありましたが、私はその映画の本質を理解していなかったことが今日になって分かりました。
どちらの親子もたいへんに子どもをかわいがっているのですが、私は「本当は愛せない子どもを、葛藤を乗り越えて愛せるようになったのだろう」という解釈を勝手にしていました。それですごいなあと、感動した。
でも、そうじゃない。
子どもは、ただ子どもなだけでかわいいんですね。「愛さなければ」という義務感からかわいがっているのではなく、本当に、心から、ただただ「かわいい」。
血のつながりが無くても、障害児でも、子どもは「かわいい」のだと。
だから、子どもだったあなたも絶対に愛されたはずなんです。
たとえブサイクでも、性悪でも、頭が悪くても、絶対的にかわいいからです。
もしかしたら、親の愛情の表現が分かりづらかったり、いい加減だったりしたかもしれません。または、「子どもがかわいい」という感覚を知らないまま子育てをしてしまったのかもしれません。
それでも、あなたが育ってきたどこかで、周りの親戚や、学校の先生や、友達の親とか通りすがりの誰かかもしれませんが、あなたをかわいい、愛おしいと思った人がいっぱいいたと思います。
そして、それはあなた自身が誰かを愛することによって実感されるでしょう。
愛されなかった子供を克服する条件について
今回、「子どもがかわいい」→「自分は愛された」と思えるようになったわけですが、その「体感」が起こった条件(わたしの場合)は次の通りです。
時系列順に…
- 2015年夏、映画『うまれる ずっと、いっしょ。』を見た(材料)
- 2016年2月、「自分が愛することにより、自分もまた愛されていることを類推できる」ことは、言葉としては頭に入っていた(材料)
- 一昨日~昨日、「愛情の念とは何か?」についてモヤモヤとずっと考えていた(エネルギー)
- 今日、気分がよく、意欲もある=エネルギーの高い状態だった(エネルギー)
- 今日、たまたま冬休みで子どもが大勢歩いているのを目撃した(材料)
映画と「愛することで、愛される」という言語的理解は、それぞれ知識として頭の中に入っていましたが、最初はバラバラに保存されていて連動していませんでした。
そして、たまたま数日前に気分が良くなる出来事があり、「皆幸せにな~れ!」のような気持ちを実感し、これが「愛情の念」というやつだろうか? とモヤモヤしていましたが、この時点ではまだ良く分かっていません。
ただ、ずーっとウンウン考えていたのではなく、一回考えるのを保留していました。
街中で子どもを見かけたときは、ただぼけーっと歩いていただけです。
ですが、バチーン!とそれらが一気に繋がりました。
おそらくではありますが、
- 一回は言葉を信じて、「それってどういうことだろう?」と自分なりに問いを立てて考えてみること(脳内が発火しやすい)
- 機嫌がよくハッピーな状態でいること(心が暖かい)
という条件がそろっていると、何かの刺激で火が付いて一気にこれまでの知識が繋がるということが起こるのだと思います。
刺激というのは別にすごくエキサイティングなことでなくても、ちょっといつもと違う「何か」で着火し得るようです。
特に、ゴキゲンでいたことが要素としては大きい気がします。テンションが高いのとは違う、「ちょっとルンルン♪」ぐらいのさじ加減が良いと思います。
よろしければ、あなたもぜひチャレンジしてみてください。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。管理人の佐藤想一郎と申します。
私が執筆しました、レポート『Cycle(サイクル)』では、今まであまり語られることのなかった〝引き寄せの法則の、もう1つの側面〟について書いています。
・「ワクワク」のダークサイド(暗黒面)とは
・9割の人が見落とす〝引き寄せられない〟根本原因
・想像すら超えた未来を引き寄せる、運命を変える秘訣
といったことにも触れています。
よろしければ読んでみてくださいね。
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